山上徹也の生い立ちと壮絶な過去|父と兄の死・母の献金と裁判の真実

山上徹也被告
山上徹也の生い立ちと壮絶な過去|父と兄の死・母の献金と裁判の真実

安倍元首相銃撃事件から時が経ち、2025年の裁判で山上徹也被告の口から語られたのは、想像を絶する過酷な生い立ちでした。

裕福な家庭からの転落、統一教会への巨額献金、そして最愛の兄の自殺。

なぜ彼は凶行に及んだのか、その背景にある「宗教2世」の悲劇と最新の法廷証言を詳しく解説します。

この記事でわかること
  • 山上徹也被告の幼少期から事件までの壮絶な生い立ちと家族構成
  • 母親の統一教会入信による家庭崩壊と1億円献金の実態
  • 自殺した父と兄、そして山上被告自身が抱えてきた苦悩
  • 2025年の裁判で明かされた妹の証言と被告本人の現在の心境
目次

山上徹也の生い立ちと家族の悲劇|裕福な家庭からの転落

山上徹也被告
山上徹也被告

日本中を震撼させた事件の実行犯、山上徹也被告。

彼の人生は、決して最初から絶望に満ちていたわけではありませんでした。

生まれた当初は、周囲から見ても羨まれるような裕福な家庭環境にあったのです。

しかし、幼いころに起きた父の死と、それに続く母親の宗教への傾倒が、彼の運命を大きく狂わせていきました。

ここでは、彼の幼少期から家庭崩壊に至るまでの経緯を詳しく見ていきます。

建設会社役員の父と教育熱心な母の元に生まれて

1980年9月、山上徹也被告は三重県で生まれました。

父親は京都大学工学部を卒業したエリートで、建設会社の役員を務める人物でした。

母親もまた、奈良県内で会社を経営する裕福な家庭の出身であり、教育熱心で品のある女性だったといいます。

周囲から見れば、順風満帆で幸せな家庭そのものでした。

一家は大阪府東大阪市の高級住宅街に住み、山上被告には1歳上の兄と、後に生まれる4歳下の妹がいました。

父親は仕事熱心で知的な雰囲気を持っており、高級車スカイラインを愛車にしていました。

また、母方の祖父は建設会社を経営しており、地域でも名士として知られる存在でした。

山上被告は、経済的にも恵まれ、愛情あふれる環境で育つはずだったのです。

しかし、その幸せは長くは続きませんでした。

父親の仕事上のストレスと、家庭内に忍び寄る影が、幼い山上被告の人生を暗転させることになります。

4歳での父の自殺と兄の小児がん闘病生活

山上被告がまだ4歳だった1984年12月、衝撃的な出来事が起こります。

父親がマンションから飛び降り自殺を図り、帰らぬ人となったのです。

父親は仕事の激務に加え、人間関係や「裏金」が飛び交う業界の体質に悩み、うつ状態にあったとされています。

幼い山上被告にとって、父親の死がどれほどの衝撃であったかは計り知れません。

さらに追い打ちをかけるように、1歳上の兄が大病を患います。

兄は小児がんの一種であるリンパ腫を発症し、頭蓋骨を開く大手術を受けることになりました。

抗がん剤治療の副作用で片目を失明し、身体的なハンディキャップを背負うことになったのです。

夫の自殺と長男の重病。

立て続けに襲い掛かる不幸に、母親の精神状態は限界を迎えていました。

この心の隙間に入り込んだのが、後に家庭を崩壊させることになる宗教団体「統一教会(現・世界平和統一家庭連合)」だったのです。

母親の統一教会入信と1億円献金による家庭崩壊

山上徹也被告(小学生の頃)
山上徹也被告(小学生の頃)

1991年ごろ、山上被告が10歳のときに母親は統一教会に入信しました。

「夫の自殺や息子の病気は、先祖の因縁によるものだ」

そう教え込まれた母親は、家族を救いたい一心で、教団への献金にのめり込んでいきます。

最初は父親の死亡保険金の一部である2000万円を献金しました。

しかし、それだけでは終わらず、翌年には3000万円、さらにその数年後には1000万円と、次々に巨額の資金を教団に渡してしまったのです。

献金の原資となったのは、亡き夫が遺した生命保険金や、祖父から相続した不動産の売却益でした。

その総額は、なんと1億円を超えるとされています。

母親が宗教活動に熱中するあまり、家を空けることが多くなり、幼い山上被告や兄妹たちはネグレクトに近い状態に置かれました。

「家に食べるものがない」

空腹に耐えかねた子供たちが親族に助けを求める電話をしたこともあったといいます。

祖父はこの状況に激怒し、母親と対立しましたが、信仰心に囚われた母親を止めることはできませんでした。

かつて裕福だった家庭は見る影もなく困窮し、山上被告の心には深い闇が刻まれていったのです。

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山上徹也の学生時代|「こてつ」と呼ばれた少年と大学進学の断念

山上徹也被告(高校時代)
山上徹也被告(高校時代)

家庭環境が崩壊していく中でも、山上徹也被告は学校生活を送っていました。

中学・高校時代の彼は、成績優秀で真面目な生徒として周囲に認識されていたようです。

しかし、その内面では、誰にも言えない苦悩と将来への不安が渦巻いていたことでしょう。

ここでは、彼の学生時代のエピソードと、経済的な理由で道を閉ざされた挫折について掘り下げます。

進学校・郡山高校での応援団活動と「団長」の横顔

中学校に入学した山上被告は、バスケットボール部に所属していました。

あだ名は「こてつ」。

名前の「徹也」にちなんだ愛称で、同級生からは親しまれていたようです。

当時の友人たちは、彼について「おとなしいけれど、真面目で努力家だった」「成績はずっとトップクラスだった」と振り返っています。

中学卒業後は、奈良県内でも屈指の進学校である県立郡山高校に進学しました。

偏差値68とも言われる名門校で、彼はここで応援団に入部します。

学ランを着て、炎天下でも直立不動で声を張り上げる姿は、同級生たちに強い印象を残しました。

真面目に応援団の活動に取り組む姿勢から、クラスメイトからは「団長」と呼ばれ、一目置かれる存在だったといいます。

1998年には、野球部が甲子園に出場し、あの松坂大輔投手を擁する横浜高校と対戦しました。

山上被告もアルプススタンドで必死に応援していたはずです。

しかし、そんな青春の1ページの裏側で、彼の家庭は限界を迎えていました。

祖父が亡くなったことで、唯一の経済的支柱を失い、生活はさらに困窮していたのです。

卒業アルバムの「将来の夢」の欄に、彼はただ一言、「わからん」と記していました。

また、弁護側の資料によれば「石ころ」と書いた記憶もあると語っており、自身の存在価値を見失っていた様子がうかがえます。

経済的困窮による大学進学の諦めと専門学校時代

郡山高校という進学校にいながら、山上被告は大学への進学を諦めざるを得ませんでした。

母親が祖父の遺産や土地をすべて売却し、教団に献金してしまったため、入学金を払う余裕すらなかったのです。

同級生の多くが大学へ進む中、彼はひとり取り残される形となりました。

「公務員になって安定した生活を送りたい」

そう考えた彼は、伯父からの援助を受けて公務員予備校の専門学校に通い始めます。

消防士を目指して採用試験を受けましたが、強度の近視が原因で不合格となってしまいました。

努力しても報われない現実。

親の信仰によって奪われた将来の選択肢。

この頃から、彼の心の中に社会に対する絶望感が深く根を下ろし始めたのかもしれません。

専門学校も中退することになり、彼は生きるための道を模索し続けました。

海上自衛隊への入隊と「兄妹のために」図った自殺未遂

2002年8月、21歳になった山上被告は、任期制自衛官として海上自衛隊に入隊します。

衣食住が保証され、給料も出る自衛隊は、彼にとって生き延びるための数少ない選択肢でした。

広島県の呉基地などで勤務し、小銃の扱いや分解・組立などの訓練を受けました。

しかし、この時期に母親が自己破産をします。

家庭の経済状況はどん底まで落ち込み、病気の兄と妹の生活は困窮を極めていました。

「自分が死ねば、死亡保険金が兄と妹に入る」

そう考えた山上被告は、2005年に自殺未遂を図ります。

自衛隊から支給されたガソリン(ベンジン)とアルコールを飲み、死のうとしたのです。

幸い命は取り留めましたが、この出来事がきっかけで自衛隊を退職することになります。

当時の調査に対し、彼は「統一教会によって人生をめちゃくちゃにされた。兄と妹を助けるために死のうとした」と語っていたという記録が残っています。

自らの命を犠牲にしてでも家族を救おうとした彼の行動は、あまりにも悲痛な叫びでした。

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絶望へのカウントダウン|最愛の兄の自殺と「石ころ」のような人生

山上徹也被告
山上徹也被告

海上自衛隊を退職した後、山上被告は派遣社員やアルバイトとして各地を転々としました。

資格を取得し、真面目に働こうとする一方で、人間関係のトラブルなどから職場を長く続けることができませんでした。

そして、彼の精神を完全に崩壊させる決定的な出来事が起こります。

それは、幼い頃から共に苦難を乗り越えてきた、最愛の兄の死でした。

唯一の理解者だった兄の自殺と「俺のせい」という自責

2015年、山上被告にとって唯一の理解者であり、心の支えでもあった兄が自ら命を絶ちました。

兄は長年の闘病生活と、母親の宗教活動による家庭崩壊に苦しみ続けていました。

母親に対し

「お前のせいで人生が狂った」

と包丁を向けるほど追い詰められていた時期もあったといいます。

兄の葬儀で、山上被告は人目もはばからず号泣しました。

「兄ちゃんアホやな、なんで死んだんや。生きてたらなんとかなるやん」

そう叫びながら、遺体のそばから離れようとしなかったそうです。

後に彼は

「俺が兄を死なせてしまった」

「俺のせいだ」

と周囲に漏らしていました。

自分だけが生き残ってしまったという罪悪感(サバイバーズ・ギルト)と、兄を救えなかった無力感が、彼を深い孤独へと突き落としました。

この兄の死が、教団への恨みを「殺意」へと変質させる決定的なトリガーになったと考えられています。

母親の自己破産後も続いた献金と妹への金の無心

母親は2002年に自己破産をしていましたが、その後も教団との関係は切れていませんでした。

親族からの援助や、子供たちが稼いだわずかなお金さえも、教団の活動費に消えていく状況が続いたのです。

2025年の裁判で証言台に立った妹は、当時の母親の様子について衝撃的な事実を明かしました。

「母が私に連絡をしてくるのは、お金の無心をするときだけでした」

「家の前で私の腕にしがみついて、50メートルくらい引きずってでもお金をせびろうとしました」

「私には関心がないくせに、お金の時だけ親の顔をしてくるのが本当に腹立たしかった」

家族の生活よりも教団への奉仕を優先する母親。

山上被告もまた、ツイッター(現X)に「母を信じたかったが、現実はどこまでも無関心」と絶望の言葉を綴っていました。

彼にとって、家庭という安らぎの場所はどこにも存在しなかったのです。

「統一教会に一矢報いる」ゆがんだ正義と事件への決意

「統一教会さえなければ、家族は幸せだったはずだ」

山上被告の思考は、次第に教団への復讐へと収束していきました。

当初は教団のトップである韓鶴子総裁を狙っていましたが、コロナ禍で来日が難しくなったため、ターゲットを変更します。

そこで浮上したのが、教団と深い関わりがあると彼が信じていた安倍晋三元首相でした。

「安倍氏は統一教会のシンパの一人に過ぎないが、最も影響力がある」

「安倍氏を殺害すれば、教団に社会的制裁を与えられる」

そう考えた彼は、インターネットで銃の製造方法を調べ、自宅アパートで手製の銃を作り始めました。

事件直前、彼はブログや手紙に自身の心情を吐露しています。

「安倍の死がもたらす政治的意味、結果、もはやそれを考える余裕は私にはありません」

彼の目的は、政治テロではなく、あくまで「統一教会への復讐」であり、そのための手段として安倍元首相が選ばれたのです。

それは、誰にも助けを求められなかった彼がたどり着いた、あまりにも悲しく、ゆがんだ正義でした。

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2025年裁判で明かされた真実|妹の涙と安倍昭恵さん出廷

奈良地裁
奈良地裁
引用:毎日新聞

事件から3年以上が経過した2025年、ようやく山上徹也被告の裁判員裁判が始まりました。

法廷では、これまで語られることのなかった家族の苦悩や、被告自身の現在の心境が次々と明らかになっています。

特に、妹の涙ながらの証言や、被害者遺族である安倍昭恵さんの出廷は、裁判の大きな焦点となりました。

法廷で語られた「生きているべきではなかった」という後悔

2025年11月20日、初めて行われた被告人質問。

証言台に立った山上被告は、弁護人から「45歳まで生きていると思っていましたか?」と問われ、静かにこう答えました。

「生きているべきではなかったと思います」

「このような結果になってしまい、大変ご迷惑をお掛けしました」

自身の人生に対する深い絶望と、事件を起こしたことへの後悔が入り混じった言葉でした。

また、母親については

「あれほど多額の献金がなければ、それでよかった」

と述べ、家庭崩壊の元凶となった献金へのやるせない思いを口にしました。

かつて「石ころ」と表現した自分の人生。

法廷での彼は、淡々とした口調の中にも、取り返しのつかないことをしてしまったという重い事実と向き合っているように見えました。

妹が涙ながらに訴えた「宗教2世」の救われない現実

この裁判で最も注目されたのが、山上被告の妹による証言です。

彼女は遮蔽板越しに、涙ながらに壮絶な過去を語りました。

「私たちは統一教会によって家庭を破壊された被害者ですが、法律的には何の被害者でもありませんでした」

「母の信仰は受け入れられなかった。気持ち悪かった」

「(兄と)2人で児童養護施設にでも行けばよかったと後悔している」

彼女の言葉は、宗教2世が置かれている過酷な現実と、法的な救済の欠如を浮き彫りにしました。

また、被告に対しては「大好きなお兄ちゃん」「自慢の兄」と語りかける場面もありました。

自分を守ろうとしてくれた兄が殺人犯となってしまった悲しみ。

彼女の証言を聞いた山上被告は、うつむきながら静かに耳を傾けていたといいます。

安倍昭恵さんの出廷と検察・弁護側の量刑を巡る対立

2025年12月3日の第6回公判には、安倍元首相の妻である昭恵さんが初めて出廷しました。

被害者参加制度を利用しての参加と見られ、法廷は緊張に包まれました。

この裁判の最大の争点は「量刑」、つまり刑の重さです。

検察側は、

「生い立ちは犯行自体には関係がない」

として、あくまで民主主義への挑戦という重大な結果を重視し、極刑を含めた厳しい処罰を求めています。

一方、弁護側は、

「被告は宗教的虐待を受けた被害者であり、その影響で犯行に至った」

として、情状酌量による刑の減軽を主張しています。

山上被告自身は、

「旧統一教会に一矢報いるのが人生の意味だった」

とも発言しており、自身の動機が教団への恨みにあったことを強調しています。

判決は2026年1月に言い渡される予定です。

この裁判がどのような結末を迎えるのか、そして社会は「宗教2世」の問題にどう向き合っていくのか、大きな問いが投げかけられています。

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まとめ:山上徹也の生い立ちと壮絶な過去|父と兄の死・母の献金と裁判の真実

山上徹也被告の生い立ちから裁判での最新証言までをまとめました。

  1. 山上徹也被告は、建設会社役員の父を持つ裕福な家庭に生まれた。
  2. 4歳の時に父親が自殺し、その後、兄が小児がんで失明するなど不幸が続いた。
  3. 母親が統一教会に入信し、総額1億円以上を献金して家庭が崩壊した。
  4. 進学校に通いながらも経済的理由で大学進学を断念し、将来を閉ざされた。
  5. 海上自衛隊時代に、兄と妹に保険金を残すため自殺未遂を図った。
  6. 唯一の理解者だった兄が2015年に自殺し、深い絶望と自責の念を抱いた。
  7. 母親の自己破産後も献金は続き、家族への金銭的搾取が終わらなかった。
  8. 教団への復讐心から犯行を決意し、安倍元首相を標的に選んだ。
  9. 2025年の裁判で「生きているべきではなかった」と自身の人生を振り返った。
  10. 妹は法廷で「教団に家庭を壊されたが、法的には被害者ではなかった」と訴えた。

山上徹也被告が犯した罪は、決して許されるものではありません。

しかし、その背景にある「宗教2世」としての過酷な生い立ちと、救済の網からこぼれ落ちた現実を知ることは、二度と同じ悲劇を繰り返さないために不可欠なことです。

今後の裁判の行方を見守りたいと思います。

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